2001年☞2002年 ユーラシア横断の旅 2003年 中東レポート

地図 1

2003年
ヨルダン・イスラエル・ガザ地区

2001年 ユーラシア横断

△ アジアのあしあと △

4月14日 タイ バンコク 「疲労困ぱいの旅立ち
4月15日 タイ カオサン 「タイの正月
4月17日 タイ バンコク 「旅のルート決め
4月20日 タイ カンチャナブリ 「戦場にかける橋
4月21日 タイ バンコク 「詐欺師
4月21日 タイ バンコク 「初めての危機

4月23日 ネパール カトマンドゥ 「見世物な俺ら
4月25日 ネパール 「国王の家
4月27日 ネパール 「神なんて信じない
4月28日 ネパール 「無理に作らなくても
5月2日 ネパール ポカラ 「ゴロゴロ・・・
5月6日 ネパール カトマンドゥ 「リベンジ
5月9日 ネパール 「風邪で安心
5月11日 ネパール 「イスラエル人は最低だ

5月15日 インド ルンビニ→バナラシ 「プラス思考
5月17日 インド バナラシ 「沐浴
5月18日 インド バナラシ 「体いっぱいに感じる
5月20日 インド バナラシ 「飾り付けされてない生活
5月21日 インド 「I kill you
5月24日 インド デリー 「大使館」「フルーツ
5月25日 インド 「暑い街」
5月28日 インド 「インターネットはどこでもドア」
5月29日 インド 「病院ツアー
5月30日 インド 「日本人の誇り
6月4日 インド アムリトサル 「Free Tibet

6月5日 国境 と国境 「Good Luck

△ 中東のあしあと 前編 △

6月5日 パキスタン ラホール 「当てにならないガイドブック
6月6日 パキスタン ? 「老人はいい
6月8日 パキスタン ギルギット 「日本車
6月18日 パキスタン フンザ 「景色に泣く」「ナウシカ」
6月19日 パキスタン ラワールピンディー 「さいこーでーす」
6月20日 パキスタン ペシャワール 「緑茶
6月21日 パキスタン クウェッタ 「一番嫌いな街」
 
6月22日 イラン バム・ペルセポリス 「遺跡をいじり過ぎるなー」
6月24日 イラン ケルマン→イスファン 「夜行バス大移動」
6月30日 イラン テヘラン 「日本文化の原点」
■イランで見たこと 「政教一致の矛盾」
■イランと言う国  「冷やかし」
7月4日 イラン マクー、ボーダー 「優しい」「床屋」

7月9日 トルコ トラブゾン 「ソイソース」
7月10日 トルコ 「逆ルートじゃなくて良かった」
7月16日 トルコ カッパドギア 「観光資源は無くても」
7月23日 トルコ アンタルヤ 「釣り」
7月25日 トルコ アンタルヤ 「少し贅沢」「教科書と違う」
■「チン チャン チョン」
7月30日 トルコ イスタンブール 「眠ってはいけない夜」
8月2日 トルコ イスタンブール 「暑い」
8月6日 トルコ イスタンブール 「善意を捨てる」

8月8日 トルコ 「様々な旅人」

△ 南ヨーロッパのあしあと △
8月9日 ギリシャ アテネ 「物価が高い!
8月21日 ギリシャ カプリ島 「船で大移動
8月23日 イタリア ローマ 「グルメの旅
8月31日 イタリア ベネチア 「魅せられて
8月31日 イタリア ミラノ 「俺がいてはいけない所
9月1日 イタリア 「盗まれる
9月2日 スペイン バルセロナ 「日本に帰りたい
9月3日 スペイン マドリッド→セビリア 「仲間に逢いたい
9月5日 スペイン セビリア 「仲間との時間」「朝日新聞」
9月7日 スペイン セビリア 「別れ
9月8日 スペイン グラナダ 「記憶は盗まれない
9月12日 スペイン アフロアシス 「バル」「醤油

△ アフリカのあしあと △
9月16日 モロッコ マラケシュ 「争う世界
△ ヨーロッパのあしあと 後編 △
9月24日 スペイン 「モロッコのコーラン
9月25日 スペイン セビリア 「セビリアは幸せな街
スペイン サンディエゴ 「誤字の秘密
ポルトガル リスボン 「ユーラシアの果てに
ポルトガル ポルトー 「魔女の宅急便1
スペイン ビゴ・国境 「牡蠣」

10月4日 フランス ボルドー 「宿探しに思う
10月10日 フランス パリ 「就職活動
10月13日 フランス パリ 「ゆとりとパン
10月15日 フランス パリ 「中華とトロ
10月16日 ベルギー ブリュッセル 「落ち着いたゆとり

10月20日 オランダ アムステルダム 「ハッパ
ドイツ未掲載

△ 東欧のあしあと △
11月2日 ハンガリー ブタペスト 「直さん、キャップ」「偶然の出会い
11月9日 ハンガリー ブタペスト 「オペラ
11月12日 ハンガリー ブタペスト 「安く毎日楽しめる街
11月14日 オーストリア ウィーン 「日帰り」
11月16日 クロアチア ドブロクニク 「魔女の宅急便2
11月20日 クロアチア ドブロクニク 「毎日おいしい日本食

11月22日 ボスニア サラエボ 「爆撃の現場」「何のための旅
11月23日 ユーゴスラビア  ベオグラード 「セルビア人」「ビザ」「大使館員
11月24日 ブルガリア ソフィア 「異常な寒さ
11月26日 トルコ イスタンブール 「バスでワイン」「インフレ

△ アフリカのあしあと △
11月30日 エジプト カイロ 「入国審査
12月5日 エジプト カイロ 「サファリ
12月6日 エジプト ? 「砂漠のツアー」
12月14日 エジプト カイロ 「ラマダン
12月14日 エジプト 「銃と警官」

△ アジアのあしあと 後編 △
12月18日 タイ バンコク 「飛行機で到着
12月22日 タイ バンコク 「タイ式マッサージ
12月28日 タイ バンコク 「バンコクのいいとこ
12月31日 タイ バンコク 「15時31分のバンコク
2001年
1月4日 タイ バンコク 「正月
1月9日 カンボジア シェムリアップ 「忘れ物
1月12日 カンボジア シェムリアップ 「アンコールワット」「客引き
1月15日 カンボジア プノンペン 「シンナーを吸う子供
1月18日 カンボジア プノンペン 「アンケート助手

1月28日 タイ バンコク 「ベトナムビザ取得
2月1日 タイ タオ島 「海に潜るべき

2月6日 タイ バンコク 「紅海に後悔」「嫌われる日本人

 

中東の涙

2月21日  中東の涙

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 日本を発ち、20時間。僕は中東に降り立った。 

 強度の二日酔いが残り、出発前日にボロ日産サニーを後輩に譲ってナンヤラカンヤラしていて疲労が残る中、成田を出発した。 

 僕は飛行機で快適な時間を過ごしていた。ヒッチハイクで移動するのとは違い、やはりお金を払って乗り物に乗ることはとても楽な事だ。人に気を使う事もなく、酒を飲み音楽を聞き、本を読んで、寝ていれば目的地に着いてしまう。 

 モスクワで乗り換え 4時間、次の飛行機を待つ。モスクワの飛行場は、社会主義の匂いが強くはびこっていた。なんだか照明がやたらと暗いし、空港のスタッフ、免税店の人々に笑顔はない。なんだか、気分が暗くなってきてしまう。ビールが安かったので、ハイネケンとキャビアの缶詰を買い一人宴を行っている間に、次のフライトの時間がやってきた。 

 アエロフロートのアンマン行きは、とても乗客が少ない。そして飛行機もとっても小さい。通路が一つしかなく両側に席が3つといった感じだ。とても何カ国もの国の上空を飛べるとは想像しがたい飛行機だった。まっあまりいちいち心配してられない。さっさと機内食とワインを飲み熟睡した。 
着陸の時、乗客の乗っていない席が前に倒れ 飛行機のボロさが浮き出たぐらいで大した問題はなかった。 

 ヨルダンの首都アンマンに着いたのは、深夜の1時。はじめての土地なので、へんに外に出ても危ないかもしれないので、空港で朝を迎えることにした。そこで、日本人の3人の方と出会った。2人は、ヨルダンから上にのぼっていきギリシャに向かうという。もう一人はというと、イラクに行こうとしていた。やはりいた、こういう人。彼は、なんとか自分も戦争を止めさせなければならない っと、いきこんでいたのだった。物静かながら熱い意志を持った方だった。話を聞くと、僕と同じ日大の国際関係学部の卒業生だった。さすがは、日大。人も多いし、ばかも多い。そんな彼らと、空港を出てダウンタウンに向かい宿を探す。ドミトリーは一泊、約600円だった。

 アンマンの天気は、かなり激しい雨の上に 寒い!! なんかイメージと違う天候だった。最近、アンマンでは通常の時期に比べても、雨が多いのだそうだ。そういえば湾岸戦争が終わりサダム・フセインが敗戦宣言をした時もヨルダンでは、雨が降ったという。もしかすると、この陰険な雨は、中東の涙なのかもしれないと、ぼーっと空を見ながら思うのだった。

≪続き≫

2002年2月9日 「遥かなる終着地」

 昨年の2月。僕は1年間のオープンチケットを買い、既に、旅の出発前から帰国日を決めていた。2002年2月15日に帰国しようと。
 おそらく次の日に、僕の所属するサークルで「オイコン(4年生の卒業を祝う、追い出しコンパ)」があるだろうと予測し、それに合わせ、旅の終わりを決めていた。オープンチケットを買った事はある意味”けじめ”だったような気がする。そして、その帰国日に合わせ、僕は旅を進めた。

 そして日は進み、旅の終わりも近くなった2002年1月。カンボジアはプノンペンにて、翌日ベトナムへ行こうとしていた日の夕方。僕はネットカフェである衝撃的なメールを見た。「オイコンは2月9日」との報告のメールだった。僕が予測していたよりもオイコンは1週間早かった。
 15日フライトだとオイコンに出席できない。僕と卒業生は同じ”代”。やはり卒業を祝いたい。一晩悩み、僕は決めた。旅をとるか、友人をとるか。僕は結局、ベトナム/ラオスへの旅をあきらめた。

 そうと決まると、フライトの日程を変更するために、プノンペンからバンコクへ。まだ学生シーズンではないが、席がいっぱいになる可能性があるため、急いで戻った。
 バンコクに戻り、ビーマン・バングラディッシュ航空に向かった。腰のベルトに10ヶ月間入れ続け、僕の汗の臭いと少し黒くカビたボロボロになったチケットを見せると、サリーを着たやる気のないカウンターのおばちゃんは、汚いものを持つかのような感じで顔をしかめた。「こんな汚いチケットは使えないよ」みたいな顔をして。
 いかに1週間早く帰らなくてはいけないかを説得するために、母には「命が危ない」ということなってもらった。サリーのおばちゃんは納得し、無事、帰国日を2月8日と変更した。

 2月9日の三島。駅に着いた僕は、そのままオイコンの会場に向かっ た。サークルのみんなには、「オイコン行けない、ごめん。」という事にしておいたので、お迎えなく1人でボチボチと。
 会場に着いた時、コンパは始まっていた。なぜか僕は、会場に入るのをタメラった。やけにドキドキして緊張していた。その緊張は、久々にみんなに会うからか何なのか。頭ではよく分からないが、身体が自然にドキドキとしていた。ふすまの前でタメラっている汚い人を店員さんは不思議がっていたので、中に入る事にした。
 ふすまを開ける。懐かしい顔が僕の目の中に飛び込んできた。3年間一緒に大学生活を楽しんだみんなの笑顔の暖かさが僕を迎えてくれた。
 あいかわらず、バカな飲み方をするみんな。1年前と変わらない。そして、心地の良い酔いが僕を襲ってきた。なんとも暖かい陶酔だった。そして、その酔いは僕に教えてくれた。

 「ここが、この旅の終着地なんだ。」

 そんな事を漠然と思わされた。

2002年2月9日 帰路

 帰国の次の日、秋葉原へ。盗まれたビデオの2世を買う為の価格調査。
 しかし、秋葉原は安い。ここの価格を知っていると、世界のどこでも電化製品は買えなくなると思う。ビデオカメラに関して言うと、10万~15万ほど値段が違う。 

 久々にオタクに遭遇し、感動し駅に戻る。
 そして、アジア横断の時、一緒だった方と食事をするため、待ち合わせ。 「タカシさん」 と 「由美さん」 に。初めて会ったのは、ネパールだった。それから所々で会い、最後はイスタンブールでお会いした。

 13時。秋葉原の駅に3人は集まった。
 しかし、お二人の印象が違った。以前は、インドの染物の服やら汚いカッコしてたのに、キレイくなってる。うーーん、なるほど、日本に住むという事はこういう事なんだね、と教えて頂いたような気がした。
 とんかつ屋へ行った。やはり、日本の物価は高い。値段に驚き、一番お安いモノを頂いた。
 その後、東京駅まで送っていただき、僕は鈍行(東海道線)で三島へと向かった。

 三島駅に着くと、夕日に染まった富士山が迎えてくれた。
 戻って来れた、この地へ。感極まるものが突然、沸いてきた。10ヶ月前、三島駅を去るとき、 (もうこの富士山は見れないかもなー。生きて帰ってこれたらいいな。) と思っていた事が蘇る。
 そして僕は、ホームでしばらく、ぼーーっと、闇に隠れていく富士山を見続けていた。

2002年2月8日(金) 新東京国際空港

 日本に着く2時間前。飛行機の下にある海平線から日の出が見えた。「おー、俺は日出る国に近づいているのだ」 と自分を感動に奮い立たせようした。が、しかし、感極まるものがない。久々の日本が近づいているのに何も思えない。

 空港に着いた時、「帰ってきたー! 帰ってきたー!」 という興奮には襲われなかった。空港に着いて思った事は、やけに日本人が多いなー という事ぐらいだった。10ヶ月ぶりの帰国という事は頭の中で分かってるのだが、身体は、いつもいつも繰り返してきた移動を、いつものように、ただ行っているようにしか感じなかった。

 空港に着き、まずは、入国審査。
 ここに1つ問題があった。パスポートには菊のマークやら金色で描かれているのだけど、僕のパスポートはそれが消えている。「偽造パスポートと間違われ、蛇頭の手引きで日本に入ろうとして失敗した人たちと同じ部屋に連れて行かれたらどうしよう・・・」 と心配がヨぎる。
 飛行機で一緒だった人と審査の列に並び、審査官に聞こえるように、ちょっと大きな声で正確な日本語でしゃべり、 「ワタシ日本人です。」 なる事をアピール。その相方に先に行ってもらい、彼が純粋なる旅行者である事を知ってもらい、僕の番。

 無事、クリア。
 次は持ち物チェック。
 マリファナやら別に持っている訳でないけど、以前、ネパールから帰ってきたとき、関空で荷物を全部出されて、しまいにはプレゼント用の袋まで破かれチェックされた苦い過去がある。だから、なんとなく抵抗感がある。タイやカンボジアで買った海賊版のCDは見つかると没収なので、服のポケットに入れておいた。

 6ヵ所で検査が行われていた。誰にみてもらおうか悩む。検査官のチョイスミスでめんどい事になるので、これは真剣に。検査官の中に1人、キレイなお姉さんがいた。いやはや なんとも珍しい。そこに並んでいるのは、若い男達。足は一瞬、そちらに向かい始めようとしていた。
 しかし、冷静に考える。これは罠だ!! 甘いものには毒がある。教訓を胸に秘め、違う審査官を観察する。その間も麻薬犬が僕の周りをウロウロする。結構、気分悪いもの。
 結局、チェックをしてもらう審査官は、中年で優しそうな目をしている人に決めた。僕はバックパックと大きなビニールのバックを持っていたのだけれど、その審査官はビニールのバックだけチョロチョローっと見ただけでOKとしてくれた。あまりにもあっけなかったので、つい 「えっ もういいんですか?」 と余計な事を言ってしまった。

 そして 無事日本入国。

2002年2月6 日 バンコク

 島より戻ってまいりました。

 いやー、しかしダイビングというのは素晴らしいいですな。正に別世界に行けるといった感じでした。今まで知らなかった海の中には、鮮やかな魚たちが、花のようなイソギンチャクが、立派なサンゴが。その中に僕が溶け込めてる事が、すごい不思議な気持ちがしました。
 でも、後悔した事が。
 エジプトの紅海に僕は行ったけど、あそこでダイビングのライセンスを取り潜らなかったという事に。すっごい透明でキレイな海をビーチから眺めていただけだった。紅海で潜った人の話だと、海中でも30メートル先がクリアに見え、水が透明だから 「まるで空を泳いでるみたい」 と。そして、僕が教わったインストラクターの方で、紅海で2千回ほど潜ったけど全く飽きないという事だった。そして、紅海はダイバーの憧れの地という事知って、ダイバーに 「そこまで行ったのにもったいないといネー。」 といわれてしまった時、後悔指数はマックスに。まあ、いいや過ぎた事は、ということで、気を落ち着かせた。
 日本でダイビングをすると 1本で5000円かかり、さらに器材のレンタルやらでエラ く金のかかるスポーツのようだけど、タイは1本1500円ほどで潜れるといういう事で、その気軽さが嬉しかった。

 タオ島より、バンコクに戻りカオサンに行くと ビビってしまった。やけに多い日本人。そうか、もう学生の試験が終わり、海外旅行学生シーズンに入ったんか。これ以上 人が多くなる前にカオサン撤退しなくては。
 カオサンとは安宿街の集まる通りの名前。その安宿めざし、多くの国のパッカーが集まる。(最近はパッカーでないキャリーバックひいたエレガント系も)

 ヨーロッパで会ったバンコクに住んでた方からカオサンの話が出た。彼曰く、今、カオサンで日本人が嫌われてるとのことだった。その話を聞いて信じられなかった。ツツましいと言われる日本人が嫌われるとのことに。

 エジプトからバンコクに戻り、久しぶりにカオサンに入った時、その実事に納得されざるをえなかった。日本で世間知らずと言われる若者たちを見た時だった。
 5・6人で連なって歩いていた。そして、大きく叫ぶような声で  「これ 汚くねー(語尾あげる)」 「これ やばくねー(語尾あげる)」 と。いかにも、「なんだこいつら」と思わせるそぶりでゾロゾロと。そして、店員に横暴な態度。見てて恥ずかしかった。

 ツツましいはずの日本人像が壊れていく。旅をしていて、日本人で得した事は、多くの国の人から、信用されている事。その信用が、かなり旅をやり易くしてくれたと思う。
 しかし、こういう輩が多く日本から出て、日本人像を壊し、そして、信用を壊していくと、えらく旅がやりずらいものになるんでは と思わされた。

2002年2月1日 タオ島

「いろんな世界を見たいなら 海に潜るべき。そこには また違った感動の世界が広がっている」 
 旅の途中に逢った人から こんなことを言われた。その人は、ダイバーで 世界各国の海で潜っているようだった。その言葉を トルコで聞いたんだけど、ずーーーっと、頭から離れなかった。

 旅も終わりに近づき、僕の足は 南の島に向かっていた。今は、タイのタオ島。ここで、その感動の世界とやらにいくために、ダイビングのライセンスを取っているとこ。

2002年1月18日 プノンペン

 カンボジアの首都プノンペンでも、大学のゼミのテーマ「異文化コミニュケーションに関するアンケート」を行うことにした。

 でも、カンボジアでアンケートやらを行うというのは、ひょっとして危険な行為ではないかと、頭のどこかで考えていた。まさかアンケートをして スパイの罪で捕まるなんてないよなーと。しかし、僕にはかつて、あの北京でアンケートをやったという自信がある。 (あの共産主義国の公安に捕まらなかったぐらいだ、どこの国でもできるだろう) と言うとっても不安定な自信がある。

 その自信がこのカンボジアでも僕を動かした。

 向った先は経済大学。門まで行き、中を伺う。門番に警官っぽいガードマン。そして門の中のキャンパスは他国に比べ、なんか硬い雰囲気。一瞬ためらった。しかし、僕には北京の自信がある。堂々と 胸を張って門を通り過ぎた。しかし、ゴツイ顔の門番に捕まる。
 門番に必死に訴え、国際学生証を見せる。英語が通じないので、近くにいる学生に通訳してもらった。僕はつい「プロフェッサーに会いに行くんだ」という嘘をついてしまったが、門番納得。キャンパスに入れもらう事になった。

 キャンパスの中に入ってしまえば こちらのもの。どこの国に行っても大学のキャンパスの中は、キャンパスの外と違う空気が流れている。その中では違う国籍の人間でも同じ若者として見てくれる、なにか居心地のよさを感じる。カンボジアの学生は、ほかの国と同様 親切に答えてくれた。
 4組目の固まっている学生に声をかけると、1人が日本語を勉強しているとのことだった。彼はナリ君という21歳。しばらくの間、簡単な日本語で話しをしていると、彼がアンケートを手伝ってくれるという。彼についていくと、30名ほどの こじんまり とした教室に着いた。ナリ君は教壇に上り何か話はじめ、僕にも挨拶をさせ、アンケート用紙を配った。嫌がる人は誰一人もいなく、みんな真剣に書き込んでくれる。その行為を3回すると、目標の80名から簡単にアンケートを収集することが出来た。

 いやー、しかし、助手というものは実に楽なもの。タイではアンケートに3日 費やしたというのに、優秀な助手をもつと2時間で終わってしまう。これから他の国でアンケートをするとき、暇そうな学生の助手を見つけてから、アンケートを始めた方がいいなと疲労を感じてない体が教えてくれた。

2001年1月15日 プノンペン

カンボジアに来て一番感じた事は、子供の笑顔が生き生きし過ぎていると言う事。小さいながら何かに縛られながら生きている日本の子供たちは 彼らの純粋な笑顔に勝つ事は出来ないだろう。カンボジアの子供たちと遊び 僕が笑い掛けると、彼らは 何十倍もの笑顔で答えてくれる。眩しすぎる。その笑顔を見ていると、ポルポト時代の暗さは消え、明るい未来にカンボジアが進んでいるように思われた。

 しかしプノンペンにて衝撃的な光景をみた。
 昼食を食べ、街中を歩いていると、10歳ぐらいの男の子だろうか、2人で 鼻と口にビニールを押し付けている。まさかと思い、近くに寄ってみると その袋の中には、少量の液体が入っていた。匂いからして明らかにシンナーだった。
 以前、話で聞いた事がある。子供に過酷労働をさせるとき、シンナーを与える。それ欲しさに、お金も食事も与えられずも子供は過酷な条件の元に働くと言う。まさかその事が僕の前で起きているとは。
 さらに ショッキングな事に 路上で幼い少年がシンナーを吸っているのに 周りの大人たちは 何も注意しない。何なんだ、この社会。カンボジアをよく知る人に聞くと、ポルポト時代の虐殺やら長い侵略の歴史のために、カンボジア人はお互い お互いを あまり信用しないよう。そのために互いの事を干渉もしないという。

 ツーリストが見た表面上のカンボジアは 明るい物に見えたが、まだまだカンボジアの奥底には暗い何かがあるように思えた。また子供たちの素敵な笑顔も すごく不安定なものなんだと知らされた。

小松的世界文化模索